一汁一菜でよいという提案 ― 暮らしの秩序と心の静けさを取り戻す
あなたは普段、どんなご飯を食べていますか?
外食やウーバーイーツなどの中食でしょうか。
それとも、自炊をされているでしょうか。
洋食、中華、和食──食のバリエーションは豊富です。
美味しくて刺激的なご飯を食べると、満たされた気持ちになりますよね。
けれど、刺激が強いものほど、食べ終わったあとにどこか疲れを感じたりします。
「今日何を食べよう?」と毎回考えるのも、正直大変。
ましてや自分で作るとなると、なおさら億劫になるものです。
そんなとき、私たち日本人が原点として持っている食のかたち──
「一汁一菜」に立ち返るという考え方があります。
一汁一菜という原点
一汁一菜とは、ご飯を中心に、汁と菜(おかず)で構成された食事の型。
その原点は「ご飯、味噌汁、漬物」にあります。
刺激の多い現代では、少し地味に感じられるかもしれません。
けれど、この「一汁一菜」という考え方には、
暮らしを支え、心を整える力があると私は感じています。
参考にしたのは、料理研究家・土井善晴さんの著書
『一汁一菜でよいという提案』です。
私自身、この本に深く感銘を受け、
「ご飯と味噌汁さえあれば十分」というマインドを、わが家でも実践しています。
子どもがまだ小さいので、漬物の代わりにおかずを添えますが、
「子育てが落ち着いたら、一汁一菜が基本の暮らしをしようね」なんて、妻と話したりもしています。
なぜ一汁一菜に魅了されたのか。
理由は大きく2つあります。
理由①:脳ではなく、身体が喜ぶおいしさ
おいしさには2種類あると思います。
脳が喜ぶおいしさ と、
身体が喜ぶおいしさ です。
例えばローストチキン、ピザ、カレー──どれも刺激的で分かりやすく、おいしいですよね。
でも、そのおいしさは“脳が喜ぶおいしさ”だと思うのです。
一方で、ご飯と味噌汁、漬物のような素朴な味は、
“身体が喜ぶおいしさ”ではないでしょうか。
身体が喜ぶおいしさは、穏やかでやさしい。
けれどその静けさに脳は気づかないことが多い。
脳と身体は、しばしば別の方向を向いているようにも感じます。
「普通のおいしさ」とは、暮らしの安心につながる静かな味。
「情報的なおいしさ(派手で刺激的な味)」とは別の価値を持っています。
五感の使い方にも違いがあります。
熱々は触覚の喜び、おいしさは味覚の喜び。
それはまったく別の感覚です。
また、日本人は「匂いがしないこと」に安心を感じます。
無臭の空間にふと漂う木の芽や柚子、わさびの香り。
それが一瞬で消える儚さこそが、美しさなのです。
脳ではなく、身体が喜ぶ香り だと感じます。
味噌や漬物などの発酵食品は、自然がつくる味。
「飛び上がるようなおいしさ」ではなくても、
どんな作り方をしても「そのときのおいしさ」になります。
おいしい・おいしくないの区別すらない時代の食のかたち。
つまり、暮らしの味なのです。
補足:家庭料理の本質 ― ハレとケ
日本には「ハレ」と「ケ」という考えがあります。
ハレは祭りや特別な日。ケは日常。
家庭料理は、まさにこの「ケ」の料理です。
ハレにはハレの料理があり、ケにはケの料理があります。
それを混同してしまうと、無理や矛盾が生まれます。
家庭料理とは、暮らしそのもの。
遊びでもパフォーマンスでもありません。
なので、毎日のご飯は「工夫する」よりも「変えない」ほうが、むしろ大切です。
変化の少ない食卓に、家族の安心があるからです。
理由②:暮らしの秩序をつくる
毎日の献立を考えるのは大変。
遅くまで働いて、帰宅後に料理をするのも大変。
だからといって外食ばかりでは、健康も家計もバランスを崩します。
そんなときこそ「一汁一菜」が、暮らしの要になります。
大切なのは、
- 「自分の心が帰ってくる場所」を日々の中に持つこと
- 「生活にリズム」を持たせること
その柱が「食事」なのです。
イチロー選手や大谷翔平選手のような一流のアスリートたちが、一喜一憂せず淡々とルーティンをこなしているのは、結果ではなく「日常の質」を大事にしているからです。
この「日常の質」を重んじることは私たちにもできます。
食を通して暮らしのリズムを整えることで実現可能です。
慎ましい暮らしこそ、何よりの備えです。
一汁一菜を実践すると、不思議と仕事もはかどります。
幸せは、外にあるのではなく、暮らしの中にあるのです。
また、一汁一菜を基本にしているからといって、ご馳走を否定する必要はありません。
むしろ一汁一菜があるからこそ、日々の暮らしに余白が生まれ、余暇を楽しめるようになるのです。
余暇とは、本来「しなくても生きられるけれど、心を潤す行為」のことです。
一汁一菜で暮らしの秩序をつくり、余暇を楽しみましょう。
補足:食べ飽きないということ
ご飯と味噌汁のすごいところは、毎日食べても飽きないこと。
ご飯は主食であり、味噌汁は発酵の恵み。
漬物は保存から生まれた食文化の知恵。
どれも「人間がつけた味」ではなく、
自然が生み出した味だからこそ、飽きないのです。
一汁一菜とは、単なる献立ではありません。
それは「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、
日本人の「生き方」そのものだと思います。
食と愛
慎ましい生活と、ほんの少しの贅沢。
その均衡に、日本人の幸福はあると思うのです。
暮らしでいちばん大切なのは「一生懸命、生きる」ことです。
上手・下手でもなく、要領の良し悪しでもなく、一生懸命であることがもっとも美しく、尊い。
それは料理も一緒です。
料理とは、食べる人を想うこと。
だからこそ、手作りのご飯には愛が宿ります。
食べる人は、すでに愛されているのです。
料理は愛情のかたちであり、生活の延長にあるもの。
そして、
和食は、引き算の料理です。
アクを取る、無駄を削ぐ。
その「無味化」の中に、旨味や美しさを見出します。
見た目や香り、触感など、他の感覚で味わいを補っているのです。
日本の和心と未来
日本は権威の社会ですが、権威の外側、ヒエラルキーの隙間にときどきすごいものが生まれます。
ラーメンや漫画がそうです。
- 文脈に寄り添い、本質に沿うこと。
- 心が自由になれる場所を持ち、日本の「和心」でつなぐこと。
これらを意識すれば、きっと新しい和食の姿が生まれるはずです。
一汁一菜という食のかたち。
それは、伝えていくべき「和の思想」そのものであり、「日本人らしさ」です。
一汁一菜という持続可能なかたち。
それは、未来へ渡せると信じることのできる新しい家庭料理の姿です。
だからこそ──
『一汁一菜でよいという提案』なのです。
最後に
いかがだったでしょうか。
一汁一菜というと、どこか質素で控えめな食事を想像するかもしれません。
しかし実際にこの考え方に触れてみると、
「質素さ」ではなく「豊かさ」のほうが強く胸に残ります。
私自身、仕事や子育てに追われて、
“何を食べるか”に余計なエネルギーを使ってしまう日が多くありました。
そんなときに出会ったのが、一汁一菜の思想です。
ご飯と味噌汁があれば十分──
そのシンプルな一言が、どれほど暮らしを軽やかにしてくれたか。
一汁一菜は“節約”でも“手抜き”でもなく、
「毎日を整えるための軸」であり、「心が帰ってくる場所」なのだと感じています。
この記事が、あなたにとっても
少しでも暮らしを見つめ直すきっかけ になっていれば嬉しいです。
一汁一菜に興味を持った方は、
ぜひ一度、土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』を手に取ってみてくださいね。
あなたの 毎日が、いまより少し穏やかで心地よいもの になりますように。
